モブ女の視点からみたosgの話というか、もしも自分の職場に尾と杉がいたらの話。
「総務課主任の尾形さんにこれ出しといて」
こともなげに上司は、書類が入ったクリアファイルを私のデスクに置いていった。私はモニターに目を向けながら「わかりました」と極めて平坦な声で答えた。私の精一杯の上司に対する抵抗だ。上司は私の表情など気にも止めていないだろう。私のデスクにファイルを起き、私の返事も待たずにデスクから離れていった。おそらく上司は、私があからさまに不機嫌な顔をすることを想定していたのだ。ともすれば少し反抗的な言葉を発するかもしれない。つまり上司は、私の態度を見届けたくないがために、書類を『置き逃げ』したのだ。
それほどまでに、総務課主任の尾形さんは他部署からの評判もよろしくない人物なのだ。
別に、仕事ができないとか、パワハラやセクハラなどの問題行動を起こしたわけでもない。ただなんとなく、たいがいの社員は尾形さんのことが苦手なのだ。
尾形さんのいる総務課は、私のいる部署の一階下にある。
書類を届けること自体はめんどうでもなんでもない。むしろ他部署へ移動することは息抜きにもなる。十分から十五分程度、そんなに時間はかからないが、それくらい席を外していても誰に咎められることはない。サボる口実にもなる。
それでも総務課主任の尾形さんの元へ行くという行為は、誰もが重い腰を上げたがらないほどなのだ。たまたまデスクで凝り固まった首のストレッチをしていた私に、上司は白羽の矢を立てたのだろう。尾形さんへの用事を頼まれるか否かは、まさにロシアンルーレットだ。
私はクリアファイルを手に椅子から立ち上がった。このフロア内で、私にだけ過度の重力がかかっているのかと周りに思わせるほどの動きで。あえて私にこの厄介事を押し付けてきた上司の視界にも入るように。なるべくゆっくりと、デスクに手をついて立ち上がった。
そんな私の脳裏に、尾形さんの光を通さない真っ暗な目が浮かぶ。あの目を初めて見たとき、私はニーチェの有名な言葉を思い出した。『深淵を覗く者もまた~』というやつだ。まさに尾形さんの目はこちらの覗く深淵だった。あの目に縫い付けられ、ボソボソと低い声で何かを言われたが、私は尾形さんの言葉に対し、聞く耳を持てる状態ではなかった。
尾形さんという人間は、なぜかそれほどまでに存在自体が圧倒的なのだ。氷のように冷たい威圧感。そうだ、それだ!と私は自分の発想に思わず膝を打ちたくなったところで、階段を上がって来た営業の杉元さんと廊下で出くわした。
私は思わず「ラッキー!」と指をパチンと鳴らしそうになった。
杉元さんは、どういうわけかあの尾形さんに抵抗なく話しかけることのできる、この会社では稀有な人物なのだ。私は杉元さんと目が合うなり「お疲れ様です」と声をかけ、適当な言い訳をつけて書類を杉元さんに託した。杉元さんは、下の階から上がってきたにも関わらず、もう一度フロアに戻らなければならないことに嫌な顔ひとつせずに、私の申し出を受け入れてくれた。
顔に大きな傷のある杉元さんを、最初は怖い人だと思っていた。しかし本人もそう思われることを何度も経験してきたのだろうか。顔の傷がいつからあるのかは知らないが、杉元さんは皆が最初に抱く「怖そうな人」というイメージを懸命に払拭するよう心掛けているようにも見える。今では社内の男女ともに慕われている。言えば、尾形さんとは真逆だ。杉元さんはそんな尾形さんに対しても、臆することなく接している。実は尾形さんとて、悪気があって威圧的な態度をとっているわけではないのかもしれない。尾形さんと杉元さんが話しているところを何度か見かけたことがあるが、杉元さんが普段通りだからなのか。尾形さんとて実はそんなに威圧的な人ではないのかもしれないと一瞬思ってしまうのだ。そういう気持ちでなにかの折に尾形さんのところへ向かうと、またあの氷のように冷たい威圧感で心をへし折られてしまうのだ。特に何かひどいこと言われたわけでもない。だが手渡した書類(私が制作したわけではない)に視線を落とし、一瞥すると、尾形さんは深淵のような目を私に向ける。そして良いのか悪いのかの判断がつかないような態度で「わかった」とだけ言って、書類をデスクの脇に放り投げるのだ。私はそれに対してただ、おずおずと尾形さんに背を向け、総務課を後にするしかない。それ以外の選択肢など決してない。できれば引き出しに書類を入れたら、真下の総務課に落ちるような仕組みでも作ってくれないかとさえ思う。いや、その前にこのご時世、わざわざ紙の書類にこだわる必要なんてないんじゃないか。社内メールではだめなのか。などという疑問が、いつも頭をもたげていた。
だが今回に限って私は一週間分の幸運を使い果たしたとでも言えよう。杉元さんには大変申し訳ないが、社内きっての飛脚と遭遇したのだ。
私は「助かります、今度コーヒー奢りますんで」と言い、急いで回れ右をし、自分の部署へと引き返した。特に急ぎの仕事はないが、焦っている様子は伝わっただろう。
「いいよ、気にしないで」
と笑顔で返す杉元さんに心を痛めながらも、彼の相手は君にしか頼めないんだ。と心の中で謝罪と理屈をこねくり回して私は自分の席に戻った。(続くかも知れない)
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