この男は俺が母親を殺したことを知らない。
初めて杉元と夜を明かした。隣で無防備に寝息をたてている男は、世間から少年Aとラベリングされた人殺しと寝たのだ。カーテンの向こうでは夜が終わろうとしている。徐々に白んでいく空は、新しい未来に侵食されているようだと、尾形は思う。そしてもう一度、目を閉じる。
居心地が悪いと感じていたのは、こそばゆいと感じるものへの対処法がわからなかったからだ。町工場の従業員が尾形の過去を知っても尚、同じように接していられるだろうか。偽りの自分に対して、汚れていない者と同じように接しようと努めている彼らへの申し訳なさがむず痒くてたまらなかった。
工場長とその奥さんは篤志家だけあって、尾形のような心を閉ざし振る舞い方がわからない若者への接し方については慣れていた。つかず離れず。昔からよく知っている近所に住む若者、というように、尾形の穴の空いた人生をどう埋めていこうか。距離のとり方がうまいと尾形が感じるほど、ちょうど良い関係性があった。
それは工場長夫婦にとって、辛抱のいる作業だっただろう。そのかいがあって、尾形はすこしずつ過去を精算していくことができた。
そんな夫婦がとった尾形に対する行為を、杉元は真似た。
尾形が町工場に来てから一年が過ぎた梅雨の日だった。
身体にまとわりつく湿気は、やがて豪雨へと変わった。取引先のメーカーへの配達を終えた杉元と尾形は、軽トラックで工場へ戻る道すがら、近道だと通った農道で泥濘にタイヤをとられた。容赦なく叩きつける雨の中、運転免許を持たない尾形は必然的に軽トラックの後ろへ周り、杉元がアクセルを踏むタイミングで車体を押す役目になった。
しかしトラックは、子供力士が相撲取りに稽古をつけてもらっているようにびくともしない。無常にもタイヤは空回りするだけで泥を撒き散らす。工場に電話をしたが、あいにくと牽引できる車は出払っていた。
それでも幸運なことに、そこから杉元が住むアパートがすぐ近くにあった。杉元はトラックをその場に置いて、工場から応援が来るまでアパートで待とうと尾形に提案する。ずぶ濡れになり、自分の無力さを嘆いているように、尾形はうなだれていた。尾形が自分の着ていたナイロンジャンパーを尾形に羽織らせる。尾形の口から力なく「すまない」という言葉が、強い雨音を縫って微かに杉元の耳に届く。
「いや、俺がこの道を通った方が早いなんて言ったから・・・」
自分の軽はずみな行動で尾形を濡れ鼠にさせた挙句、謝らせてしまったことに対し、杉元は深く落ち込んでいた。申し訳なさと不甲斐なさ。杉元は額に落ちた前髪の雫を滴らせ、唇の裏を噛んだ。そして尾形の頼りない背中を押して、アパートのある方へ向かった。
「ほんとにすぐそこだから。見えるだろ、あの紺色の屋根のアパート」
杉元は必死になって土砂降りの向こうを指さす。車はここに置いて走ろうと先導を切る。水たまりの飛沫をあげて、轟音の雨粒の中を走り抜ける。新しくも古くもない、築二十年ほどのアパートがすぐ目の前に現れた。自分で部屋を借りたことのない尾形には、それが杉元の収入に見合っているものなのかどうかも検討がつかなかった。
ただ部屋に入ると、世話になっている工場長宅に比べ、ずいぶんと湿っぽいにおいがした。据えたにおいとでも言うべきか。少年院の冷たい床と壁を思い出す。だが初めて工場長宅の玄関を潜った時に嗅いだ、あの独特な「人の家のにおい」がする。そおれは家ごとに住人の生活を窺わせる、生きたにおい。
先に風呂へ入れと杉元に風呂場へと押し込まれる。蛇口から浴槽にお湯が落ちていく。浴槽に爪先を入れると、冷えた身体にじんわりと熱が染みていく。一瞬で心が安堵する。まるで優しさが尾形の足元から冷えた心をほぐしていくそうだった。尾形はなぜか少しだけ泣きたくなった。だが涙の理由がわからず、まだ浅い湯船の中で膝を抱えた。
軽い気持ちでTwitterに書き綴ってた分を全て書き出したんですが、けっこう長くなりそうなので続きはぴくしぶにまとめてアップしようかなーと考えています。どうなるんだろ。この二人(いつもの見切り発車)
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