にじそうさくの鳴く頃に 業
- すけきよ
- 2020年11月19日
- 読了時間: 4分
いまに始まったことではないし、自覚もあったんだが、やはり皆と同じものを良いと盛り上がれないのは悲しいことなんだと。
悲しいというか、今まで孤独に篭って黙々と自分の書きたいものを書いてきた。
「私がジャンルだ」とまで息巻いて、それでいい、私は私の思う彼らを妄想の許す限り書き出していくことが、自分のスタイルだと思っていた。
いや、もしかするとそうでも思わなければ心がバキッと完膚なきまでに折れてしまうことを知っていたから、強めの心持ちでそれを回避しようとしていたのかもしれない。
だが結局、私は自分の解釈を突き詰め、それがだんだんと新芽が大樹に育つように揺るがない大きなものになっていった。その幹の太さは私の心を折らんとするように、どっしりと私の中に構えるようになった、のかもしれない。
そして私は原作というキャンバスにまで、私の色を塗り重ねていた。
二次創作はおそらく私のエゴだ。いや、ほとんどの二次創作は原作や本来のコンテンツから分離したキャラクターに都合のいい妄想という電池を組み込んだものなのかもしれない。
だとしても、やはり二次創作は原作や公式があって成り立っている。
決して原作よりも自分好みのキャラを生み出してはいけないのかもしれない。
私が書く彼らは、原作のキャラを複製し自分の好みに弄ったもはや架空のさらに架空の存在になりつつある。果たしてそれは原作のキャラと言えるのだろうか。
加えて公式側は商業作品なので、とうぜんながらマーケティングを行っている。
その結果、最適解であるとされる商品を企画し、販売する。
ということはつまり、大多数のファンがそれを求めていると予測した結果が商品化されるわけで、その内容が私がキャラ(というか作品)に求めていない情報を開示したものであったとしても、私は企業が予測した大多数のファンから外れた存在であるということだ。
これまでも自分がマイノリティ側の人間であることは、二次創作だけではなくいろんな場面で痛感してきた。
それらの経験は、私に「自分は過半数が求める、または有する感覚を用いていない」と突きつけてきた。
それで落ち込んだ時期もあったが、いつからか「それでいい、しょうがない」と感情を上下させることから開放した。
これは意識的にそうなったのか、どこかで諦めのような厭世的な気持ちを持つことで心を守ろうとした結果なのかはわからない。
ただ共感できないことを悲しむこと、寂しいと思う感情は、気がついたらどこかに落っことしてきた。そうなってからは穏やかでいられる場合が増えた。
ただこうして孤独と手をつなぎ二次創作を続けていくことで、原作と自分の理想がかけ離れていってしまう恐れを感じた。
そして皆が公式からの供給で盛り上がっている場を、遠くから無感情に見つめるしかない現状は、私と手を取り合った孤独の色をさらに濃くさせた。
しかしこうは言っても、私のこの歪んだ趣向をまっすぐにすることは難しい。
私はまたこの捻じれと折り合いをつける方法を探して、二次創作を続けていくしかないのだ。結論はでている。そしてまだ書きたいものは頭の中にある。筆を折るという選択肢は選べない。
とあるサービスで「私は腐女子なのか」と問答していたら、「あなたはあなたです」とコメントをくださった方がいた。
私は大多数の腐女子ではないかもしれないし、大多数のファンよりも穿った見方をしているだろう。
今はおそらく、どこかで切り離した「寂しい」を思い出しているのかもしれない。ただそれも表立ってでてこないくらいには、ぼんやりとした形でしか浮かんでこない。どうすることもできないと知っているから発露も見いだせず、うっすらとした形状で中途半端に心の中に漂っているような。「寂しい」も、どうしていいのかわからず実体を構築できないのかもしれない。
非常に不可解で扱いづらい感情と趣向とつきあいつつ、だったらせめてその消化できない気持ちが創作と握手を交わしてくれたらと思う。
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