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執筆者の写真すけきよ

ifの世界



間延びした乾いた音が、曇天に吸い込まれていく。

「おまえ、それは誰に習ったんだ?」

狙撃訓練中の尾形は、上官の声に素早く姿勢を正した。

「いえ、誰からも教わっておりません」

敬礼をし、尾形は上官の質問に答えた。

「では、独学か?」

上官は少しだけ目を見開いた。

「はい。少年時代に祖父の猟銃を拝借し、毎日山で夕餉の鳥を撃っておりました。狙撃は、その時に覚えました」

尾形は上官に向かい、はきはきと答える。上官は感心したように大きく頷き、激励の意味をこめて尾形の肩に手を乗せ、その場を去って行った。


狙撃訓練に参加していた新米の陸軍兵の中で、尾形の狙撃の腕は群を抜いていた。陸軍士官学校を出た軍人でさえ、尾形ほどの狙撃ができる者はいなかった。

上官の足音が遠のいたことを確認すると、尾形は小さく息を吐いた。そしてまた、地面に身体を這いつくばらせ、小高く積まれた土の山に置かれた三八式歩兵銃に手を添える。遥か遠くに立てられた、人型の的。木で作られたそれは、当然だが動くことはない。それでも訓練兵達が銃を構える場所からは、1kmは離れている。肉眼では人型の的は、ぼんやりとして、かろうじて木でできた「何か」ということしか視認できない。

尾形から直線上にある人型の的は、頭部に人の拳が通るくらいの大きさの穴が空いていた。


尾形が幼い頃、母親は冬になると来る日も来る日も、あんこう鍋を拵えた。尾形も母親の作るあんこう鍋が好きだった。毎晩、食卓にあがる、地元茨城県の名物であるあんこうは、冬にしか捕れない。それは母親が愛した男の好物でもあった。

「あの人もね、このあんこう鍋が好きだって、いつもおいしそうに食べてくれたの」

母親は食卓で毎日そう尾形に語った。次第に尾形の喉を通るあんこうの切れ身は、どこか毒々しいものへと変わっていった。冬のあんこうは、淡白だが濃厚な旨みがあり、その出汁が鍋の中の柔らかな野菜にも染みていた。

煮える鍋の中は、あんこうの出汁を吸って、一緒くたになる。白菜も大根も人参も、みな、あんこうに毒されていく。逃げ場のないなべの中で、すべてがくたくたになる。

祖父の猟銃を手にし、尾形は空を飛ぶ鳥に銃口を向けた。

遠くで聞く乾いた銃声は、幼い尾形の耳をつんざく。引鉄は小さな指には重く、銃身を支える腕は震えた。

手持ちの弾がなくなるまで銃口を空に向けた。だが鳥は、空から姿がを消すことはなかった。

始めてから3日目、ようやく一羽の鳥が畑に落ちてきた。ぼとり。命が地に落ちた音。初めて生き物の命を奪った。尾形は、生殺与奪の意味もまだ知らぬうちに、自らの手で生命を奪うことが可能なのだと知った。


「けれどその鳥が、食卓に並ぶ事はありませんでした」

尾形が何度目かでようやく手に入れた鳥。なんという鳥だったかもわからないが、茶色い羽と白い羽が混じった鳥だった。

「母は、見向きもしませんでした。鳥を手にして帰宅した俺に背を向け、台所でまたあんこうに包丁を入れていたんです」

食堂のテーブルに両肘をつき、手の甲に顎を乗せて尾形は語った。憂うように目を細めて、向かいに座っている男に向けて。男は尾形の話に時たま頷くだけで、言葉を挟むことはしない。なので尾形はさらに続けた。

「だから俺は、銃の腕はからっきしなんです」

そこで尾形は目をふせた。

「なるほど、そうか」

男は椅子から立ち上がり、尾形を見下ろした。顔を上げる気配のない尾形のつむじのあたりをめがけて、男は抑揚のない声で告げた。

「つまり君には、生まれた時から父親が不在であった。父親は、一度も君の顔を拝みに来たことはないんだな」

「そのように、祖父母から聞かされていますし、実際に俺も父の顔は知りません」

手の甲に顎を乗せたまま、尾形は目線だけを男に送った。

「では君は、今日から尾形百之助を名乗れ。君の父君は大日本帝国陸軍中将近衛兵の花沢幸次郎だ」

男と尾形の間に、一瞬だけ沈黙が流れた。だが尾形は顔色ひとつ変えずに「承知しました」とだけ言い、席を立った。

ここは、歴史上厳重に守られた軍事機密。昭和初期にスパイ養成学校が設立される以前に存在した、参謀本部直属でありながら一部の者にしか知られていない、国内初のスパイ訓練施設だった。

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