「おい起きろ」
ソファーの上に横たわった身体に鈍い衝撃を感じ、尾形は目を覚ました。アイマスクを僅かに持ち上げて、隙間から覗き見るように視線を向ける。ぼやけた視界に映ったのは、仁王立ちで尾形を見下ろしている杉元。
「もうちょっと優しく起こせよなァ、執刀医」
尾形はのろのろと身体を起こしてアイマスクを剥ぎ取る。その際に乱れた髪の毛を後ろに流す。膝に手を置き立ち上がろうとするが、足元が覚束無い。
「早くしろ。おまえまた吸引麻酔キメてんのかよ」
呆れた顔で尾形の腕を掴み引き上げる。だがそれ以上はきつく咎めることもない。
「俺はこれぐらいの方が集中できんだよ。頭ん中の余計なもんがとっぱらわれて、手術にだけ集中できんだよ」
同じやりとりをもう何度もしている。聞き飽きたセリフを、尾形はなんどでも吐く。だが言い訳に聞こえるその言葉が事実であることを杉元はよく知っている。実際に杉元の執刀するスピードに合わせ、指示を出さずとも正確に患者の身体をコントロールできる麻酔科医を杉元は尾形以外に知らない。この男の腕を認めざるを得ない憎たらしさに杉元が唇を歪めていると、尾形はその顔に吐き捨てるように続けた。
「おまえこそ、ちんたら切ってたら俺は寝ちまうからな。てめぇの射精くらいスピーディーに頼むぜ」
尾形は杉元の肩を叩き鷹揚に笑い声をあげた。
「んなことここで話すなよ!」
否定できない事実に苛立ち、杉元は歩き始めた尾形を早足で追い越した。
リノリウムの床にペタペタとサンダルの音を鳴らし、尾形は気だるそうに杉元の後に続く。杉元の背中で大きなあくびをしている気配がする。張り詰めた杉元の緊張に反して、尾形は事も無げに伸びをし、寝起きの身体を解している。
白衣を脱ぎ、手術着に着替える。念入りに爪の間まで手を洗い、最後にラバー手袋をはめる。尾形はわざとらしくパチンと留口を弾いて音をたてる。
手術開始の号令。すでにルートを確保してある患者の腕から伸びたチューブに、尾形は麻酔薬を注入していく。ゆっくりとシリンダーを押しながらカウントを始める。間延びした声で「いーち、にーい…」と数えて、5まで数え終わった時。
「いいぞ、始めろ」
尾形が杉元に合図する。
患者は麻酔薬を注入される前から目を閉じたままだ。大方の患者は、手術台の上に寝かされた時から、目を閉じじっとその時を待っている。
だが尾形は、患者が麻酔薬により意識が落ちたことを目視だけで判断する。そういう男なのだ。自らを天才麻酔科医と呼ぶこの男は。
杉元は尾形の言葉どおりに執刀を始める。
二人は手術中に言葉を交わすことはない。尾形は杉元の手元を、杉元は手元を見ている尾形のしようとすることを、完成に理解しているからだ。
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