最初は好きなんて気持ちすらあったのかも曖昧だった。
仕事終わりに、たまには飲みに行くか。なんて声をかけてきたから、動揺して思わず同意した。
この部署に配属されてから一年。部署というよりは表からは極秘扱いの特別捜査班。皆それぞれにここに集められた事情がある。それは決して人前で笑って話せることではない。俺だってそうだ。だから相手が口を開くまでは、互いの過去を詮索することもない。任務上、必要にかられれば、前職で得た知識を提供するだけだ。それでなんとなく過去にどんな職に就いていたかを察する。相手と知り合う以前の情報は、その程度だ。
当然、こいつ、杉元の過去も詳しくは知らない。公安外事課にいたという経歴だけで、なぜ外事課を外れ特別捜査班に送り込まれたかの理由は知らない。無口ではないが、どことなく自分とは正反対の性質を持った人間のような気がしていた。だから積極的に会話をすることもなかった。
武闘派の捜査班は俺と杉元だけなので、よく二人で組まされ、犯人の確保に関わる。切れ長の目と、顔に浮かぶ大きな傷痕から、獰猛な男の印象が強かった。だが何かとフォローを入れてくれたり、肩を叩いて「やったな」と笑顔で讃えてくれる姿に、はじめはどう対応していいのかわからずにいた。
この獰猛さが取り柄のような男にも、人を労ったり冗談を笑うこともあるのだと、少しずつわかっていった。
「まさかこっちの気があるとは思わなかったな」
二軒目に連れていかれたバーの記憶が蘇った。だが今、杉元に組み敷かれながらこの台詞を吐かれている状況。ここまでの記憶がぷっつりと途切れている。思い出そうとも、靄の向こう側に目を細めるようなものだった。つまり、どういったいきさつがあって、杉元と身体を重ねるに至ったのかがまるで思い出せない。意識を自分の身体に向ける。さしあたって痛みや外傷はないようだ。俺が抵抗した様子はないらしい。
ならこの男は、俺が酩酊しているのをいいことに、自分の部屋に連れこみ、あまつさえ服を脱がせ性行為を試みようとしているのか。
俺は杉元の顔を睨んだ。ベッドに仰向けになった俺に覆いかぶさる杉元の顔が、真上に見える。暗がりではっきりとはわからないが、目を細めて笑っているように見えなくもない。俺はそこではっとした。
さっき杉元は「まさかおまえにこっちの気があったとはな」と言った。ということはつまり、俺が男相手に欲情する性癖だと、この男は知っているのだ。そして杉元もまた…。
そういったやりとりが行われたことすら思い出せそうにない。海馬に爪をたてようと手を伸ばせども、するりと指先からすり抜けていくような。もどかしさだけが残り、現実、目の前の事柄がくつがえることもない。
ただそれにしても、今すぐ隙だらけの腹に膝蹴りを食らわせてやろうという気にはなれなかった。カーテンの隙間から、夜の明かりがうっすらと差し込み、顔に杉元の影が落ちていた。影が濃くなっていくのを、俺はただ見上げていた。とうとう視界いっぱいに杉元の顔面の傷が広がる。そろそろかと俺は目を閉じてみる。まぶたの裏に、まるで紙芝居のように断片的な記憶が繰り広げられていく。
ーああ、そうか、俺は。
生暖かい感触、アルコールの残る舌。
ー自分から、ほしいとねだったんだ。
「新人か」
「ああ」
「そうか。杉元だ。よろしく」
「尾形。よろしく」
てっきり握手でも求められるのかと思った。だが杉元はそっけなく、またデスクに両腕をついて腕立ての続きをはじめた。
あの時から?いや違う。ただほっとしたんだ、その無関心さに。自分の過去を詮索されないことを、心から安堵した。代わりに、この男が俺に無関心なだけなのか、他人の過去に無遠慮になれぬほど、明るい過去を持ち合わせていないのか。それだけが気になった。
「あそこだ。手前から五本目の電柱の陰にいる」
「ここからよく見えるな」
「目はいいんだ」
「ふっ。にしても良すぎだろ」
ビルの屋上から容疑者を見張っていた時だった。常人では目視することが難しい距離で姿を消した容疑者が、俺には見えていた。現場には俺と杉元だけだった。逐一他の仲間と連絡をつけながら、容疑者を追っていた。じっと容疑者の同行を監視していた。緊張感でまばたきひとつですら重く感じるほど。だが杉元は、俺の話のどこに面白みを感じたのか、張りつめた糸がたゆんだかのように表情を緩めた。
ーこんなふうに、笑う男だったのか。
顔を横断するほどの大きな傷痕が歪んだ。
「いくぞ」
肩を叩かれ我に返った。こぼれた笑みはもうその顔にはなかった。代わりにいつもの獰猛をまとった厳しい表情に切り替わっていた。
ーあの時からだったのか。
『その瞬間』というものが、どこを指すのかは思い出せない。意識し始めた瞬間。この男が好きだと認めた瞬間。その一瞬のきっかけがなんだったのか。何をもってこの男に惹かれてしまったのか。
おぼろげに蘇る記憶の中で、たしかに俺は杉元に好きだと伝えた。あろうことか、杉元はそれをたゆんだ糸のような笑みで受けいれた。とうとうこぼしてしまっていたのだ。自分でも気づけなかった、奥底に佇んでいた感情に。
ーああ、俺は。この男のことが、好きだったんだ。
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