「あんた、まだいたのか?」
背後から投げられた声に尾形が振り向く。作業着姿のままの杉元が開けっ放しのドアから顔を覗かせていた。
約一ヶ月、大型ビル建設作業現場で毎日顔を合わせていた男。内装業者として現場入りしていた杉元より数日あとに、尾形は技術者としてビル内のネット回線などの工事で現場入りしていた。
業種は違えど、現場で毎日顔を見かける。休憩時間に喫煙所で落ち合うこともあった。お互い名前なんてヘルメットに貼られたネームプレートで知っている程度。同じ現場でも畑違いの職種である二人が、業務に関することで言葉を交わすこともない。けれど、お互いがお互いを目で追っていたことは知っている。どちらが先にそのことに気がつき、意識するようになったのはわからない。自分の方からだとは認めたくない。無視できない存在であることに気づいてしまった。視線が交わる回数が増えると、もっと意識してしまうようになった。恋だと知ってしまった頃には、もう落ちていた。
取り付けられたばかりの真っ白い壁に四方を囲まれた、これから何かのオフィスになる予定の部屋。シンナー臭さが残るフロア。照明が反射するリノリウムの床に胡座をかき、床に置いたノートパソコンに尾形は背中を丸めて向き合っていた。
「最後の調整がうまくいかなくてな」
そう言って首だけを杉元に向けた尾形は、無意味に髪を後ろに撫でつける。今日はすでにみんな引き払ったはずだと思っていた尾形は、内心どきりとしたことを誤魔化した。誰もいないはずの建物内で背後から人の声が聞こえたこと。その声が杉元だったこと。跳ね上がった心臓が尚も落ち着かない。悟られまいとすぐに尾形はパソコンに向き合って、キーボードを叩く手を再開する。
「へぇ、あんま根詰めんなよ。あんたは明日もあるんだろ」
背中に届いた声と共に、気配も消えた。
尾形は引き続きこの現場での作業があるが、杉元たち内装業者は今日でこの現場から離れる。胸に引っかかった異物感が煩わしくて、尾形のキーボードを弾く音が強くなる。
それから数分して、杉元はまた尾形が残るフロアへ戻ってきた。
「ちょっと休憩しろよ」
目の前の画面が缶コーヒーで遮られる。そこで初めて尾形は杉元が引き返してきたことに気がついた。無意識に「このコードじゃねぇのかよ」などと呟いていたことにも気づく。顔を上げることができずに、尾形は小さく礼を言い、缶コーヒーを受け取った。
杉元は断りも入れず尾形の横に腰を下ろして、缶コーヒーを口にした。尾形もプルタブを開けて口をつける。尾形がいつも喫煙所で飲んでいる銘柄と同じ味が喉の奥に流れていく。
「なんであんた、ここにいるんだ?みんなもう帰っただろ」
何かを口にせねばと尾形が先手を打つ。
「あー、喫煙所にスマホ忘れちまって…」
頭をかいて照れくさそうに笑う杉元から、尾形は目を逸らした。どちらも手持ち無沙汰で缶コーヒーに何度も口をつけた。飲みなれているはずのコーヒーなのに、水のように味がしない。思えば顔と名前、お互いの会社名までわかっているのに、話すのは今が初めてだった。喫煙所で顔を合わせるも、軽く挨拶をし、互いの同僚と会話をするか、スマートフォンを眺めるだけ。交わしたのは視線だけ。明日になれば、別々の現場で、いつも通りにそれぞれの仕事をこなすだけの日々に戻る。
缶コーヒーを床に置いた音がやけに響いたて、二人を取り囲む緊張に亀裂を入れた。尾形ははっとして作業の続きを始めようと、キーボードに手を伸ばした。
「それ、いつ終わる?」
伸ばした右手を杉元に掴まれ、目が合ってしまった。交わすだけだった視線が今は鼻先にある。
「あと、少し、だと思う」
喉の奥から絞り出した声に嘘を乗せた。ほんとうはさっきからどんなコードを打ち込んでも、エラーばかりを吐き出され、終わりが見えていない。けれど、それを伝えてしまったら。
尾形は右手を掴んでいる杉元の手が離れてしまうことを恐れた。そして嘘を吐きだした。
杉元は尾形の嘘に眉をひそめて目を伏せた。なぜそんな、残念そうな顔をするのか、尾形にはわからなかった。
「終わらなきゃいいのに」
低く呟かれた杉元の言葉を尾形は聞き返そうとした。
終わらなかったら、終わらなかったら何を期待するんだ?
尾形が疑問を口にする間もなく、答えはすぐに返ってきた。
頭の処理速度が追いつかない。理性がオーバーヒートする。ゼロの可能性に誤りが生じる。デバック不可能。
尾形の口の中で、いつもとは違うコーヒーの味がした。
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